孤児の自立のために
-「竹川お兄さん」お別れ会-
先日のコラムに「春は別れの季節」と書いたが、3月半ば、大阪中国帰国者センターで、長らくこのセンターの理事長をされ、昨年秋に91歳で亡くなられた竹川英幸さんのお別れ会があった。
中国残留孤児の肉親捜しに奔走された故山本慈昭さんが孤児の父だとしたら、竹川さんは孤児たちのお兄さんといった存在だった。自身、旧満州の開拓団で12歳の時に孤児になり、30歳になってやっと日本の実父母に会えたという。私は記者時代に2度、そんな竹川さんと一緒に残留孤児に会いに中国を訪ねた。
だが、年とともに人々の記憶は薄れ、日本に永住を希望しながら肉親にめぐりあえない孤児が多数となった。そんな孤児のために竹川さんは「多すぎて数えるのをやめた」というほど、身元保証人を引き受けていた。
だけど国も自治体も、やっと帰国した孤児の自立に向けて腰を上げようとしない。そうした役所との交渉の場で怒りを爆発させた竹川さんは、まるで瞬間湯沸かし器。「国はこの子らを2度も捨てるのかっ」。だが、その目にはうっすらと涙が浮かんでいたという。
お別れの会でのみなさんの言葉。その中に私が竹川さんに抱いていた疑問を氷解させてくれる話もあった。
2000年初め、孤児が文書連絡費1万円を持ち寄って原告団を結成、国に1人3000万円の賠償を求めて集団提訴したが、その弁護団も私と同様、竹川さんは、あんなに国に怒っていたのに、この訴訟には「冷ややかだな」と感じたという。
あるとき弁護団が説明にうかがうと、竹川さんは話を聞いたあと「孤児の中には1万円払えば3000万円入ってくる。もう働かなくていいと言ってる子がいる。まずその誤解を解いてください」。
すべては孤児の自立のために―。外は冷たい早春の雨。だが、お別れ会はいつの間にか中国語、日本語が飛び交うにぎやかな懇親の場に。遺影の竹川さんは、そんなこの子らをにこやかに見守っているようだった。
(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2025年4月7日(月)掲載/次回は4月22日(火)掲載です)
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