日刊スポーツ「フラッシュアップ」

2025年4月 7日 (月)

孤児の自立のために

-「竹川お兄さん」お別れ会- 

 先日のコラムに「春は別れの季節」と書いたが、3月半ば、大阪中国帰国者センターで、長らくこのセンターの理事長をされ、昨年秋に91歳で亡くなられた竹川英幸さんのお別れ会があった。

 中国残留孤児の肉親捜しに奔走された故山本慈昭さんが孤児の父だとしたら、竹川さんは孤児たちのお兄さんといった存在だった。自身、旧満州の開拓団で12歳の時に孤児になり、30歳になってやっと日本の実父母に会えたという。私は記者時代に2度、そんな竹川さんと一緒に残留孤児に会いに中国を訪ねた。

 だが、年とともに人々の記憶は薄れ、日本に永住を希望しながら肉親にめぐりあえない孤児が多数となった。そんな孤児のために竹川さんは「多すぎて数えるのをやめた」というほど、身元保証人を引き受けていた。

 だけど国も自治体も、やっと帰国した孤児の自立に向けて腰を上げようとしない。そうした役所との交渉の場で怒りを爆発させた竹川さんは、まるで瞬間湯沸かし器。「国はこの子らを2度も捨てるのかっ」。だが、その目にはうっすらと涙が浮かんでいたという。

 お別れの会でのみなさんの言葉。その中に私が竹川さんに抱いていた疑問を氷解させてくれる話もあった。

 2000年初め、孤児が文書連絡費1万円を持ち寄って原告団を結成、国に1人3000万円の賠償を求めて集団提訴したが、その弁護団も私と同様、竹川さんは、あんなに国に怒っていたのに、この訴訟には「冷ややかだな」と感じたという。

 あるとき弁護団が説明にうかがうと、竹川さんは話を聞いたあと「孤児の中には1万円払えば3000万円入ってくる。もう働かなくていいと言ってる子がいる。まずその誤解を解いてください」。

 すべては孤児の自立のために―。外は冷たい早春の雨。だが、お別れ会はいつの間にか中国語、日本語が飛び交うにぎやかな懇親の場に。遺影の竹川さんは、そんなこの子らをにこやかに見守っているようだった。

 

(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2025年4月7日(月)掲載/次回は4月22日(火)掲載です)

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2025年3月17日 (月)

人口流出 福島の町 ささやかな反転攻勢

 

 先週、発生から14年となった東日本大震災。今年も福島県川俣町を訪ね、初めて県立川俣高校の卒業式を取材させてもらった。

 創立117年。町の高台にある学校の広さは東京ドーム1・5個分。かつて320人いた生徒は震災後、町の人口減もあっていまは51人。うち卒業生は14人だ。

 式を終えた卒業生は教室で最後のホームルーム。3年間担任だった50代の男性教師から1人ずつ証書を手渡され、ほとんどの生徒が皆勤賞、精勤賞、生徒会功労賞。何かの表彰を受けて、みんなに向けてひと言話す。

 仙台の大学に行きます。この町のために役場で働きます。震災の時は3歳でしたが、当時のことを親から聞いて看護師の道に進みます。

 驚いたのは、4人もの生徒が「じつは中学時代は不登校だった」と話し出したことだ。「だけどこの3年間は楽しかった」「いい仲間だった」「こんな私が精勤賞。みんな、本当にありがとう」

 その川俣高校が、この春から大きく変わる。こうした学校の雰囲気と恵まれた環境を生かして、県立高校では珍しく全国から生徒を募集することになった。

 そういえば避難地域となって在校生ゼロが続く町内の山木屋小中学校も、この春から校区の学校に通いにくい子どもを広く受け入れる。人口流出に泣かされた福島の町が、ささやかな反転攻勢に打って出たのだ。

 そんな福島の川俣高校最後のホームルーム。先生は、この日で卒業生を送り出すのは8回目。270人になると話し出した。

 「そのうち1人は若くしてがんで亡くなりました。そしてもう1人は、自死でした。仕事に行き詰まったと後で聞きました」。先生はそこでひと呼吸置いて、「だから約束してほしい。きみたちは卒業していくけど、先生は、生きている限り、みんなの担任だと」

 大粒の涙が頰を伝った。

 ♪ぼくら離ればなれになろうとも クラス仲間は…

 残雪の磐梯山に、こだまが吸い込まれていくようだった。

 

(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2025年3月17日(月)掲載/次回は4月7日(月)掲載です)

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2025年3月 3日 (月)

私たちがウクライナになすべきことは何なのか

-ロシアの侵攻から3年-

 「昨年末の岡崎のチャリティーコンサートは300人収容の会場で、客はたった8人でした」。男性は東海テレビの取材に答えて肩を落とした。

 ロシアのウクライナ侵攻から3年がたった。この間、ウクライナでは子どもを含めて1万2600人の民間人が亡くなり、その戦火を逃れて1月現在2747人が日本に避難してきている。 だが、こうした避難民を支援してきた日本ウクライナ協会のナターリヤさんによると、侵攻当初とは様変わり。以前は支援物資であふれた事務所の棚は隙間が目立つ。ナターリヤさんは「ガザ地区の問題。それに能登半島地震も起きて仕方ないよね」とつぶやく。

 だけど、それ以上に避難民の心を暗くしているのは祖国を取り巻く情勢だ。3年前、長女と長男を連れて避難してきたカテリーナさんもその1人。その後、夫も合流して次男が生まれた。だがロシア軍に占領された故郷ハルキウどころか、ウクライナそのものが危うい。

 トランプ米大統領は就任直後からロシアにすり寄り、ウクライナ抜きの頭越し外交。ゼレンスキー大統領に退陣を迫り、「プーチンが望めばウクライナ全土の占領もできる」とどう喝する。

 その一方で支援打ち切りを恐れる弱みにつけ込んで、レアアースなどウクライナの豊かな鉱物資源を開発させろと迫る。こんな暴挙があっていいのか。大国による恐喝事件ではないのか。

 日本で生まれた次男に歯が生えてきたというカテリーナさんは、この子たちの将来はどうなるのか、スマホで祖国の友人と連絡を取り合う日々が続く。

 情けないのは私たちの国だ。暴挙、暴走の米大統領の前でお追従を並べ、日米地位協定もウクライナ問題も持ち出せずに帰ってきた。そんな首相をいさめるどころか、国会もメディアも初会談は大成功と持ち上げる。

 はっきりさせておきたい。私たちがウクライナになすべきことは、チャリティーコンサート会場を埋めることではなくなっているのだ。

 

(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2025年3月3日(月)掲載/
次回は3月17日(月)掲載です)

 

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2025年2月17日 (月)

新聞 SNS テレビのバトンリレー

-読売新聞静岡支局のスクープ-

 出演している静岡朝日テレビの「とびっきり!しずおか」の控室に、読売新聞静岡支局のM記者が「お目にかかりたいと思って1年たってしまいました」と言って訪ねてきてくれた。

 昨年4月、当時の川勝知事が新入職員の県庁入庁式で「野菜を売ったり、牛の世話をしたりとかと違って、みなさんは知性が高い」と訓示。この発言を読売のM記者だけが問題ありとしてスクープした。と言っても、当初は朝刊静岡県版のみの囲み記事。ところがその日朝から事態は急展開。知事の電撃辞任にまで発展した。

 辞任のニュースを報じる番組で私は「記者に絶対欠かせないのが人権感覚。ひとり、この発言を取り上げた記者にエールを贈りたい」とコメント。それを聞いてM記者は、ひと言私にお礼を言いたかったという。

 「そうか、キミだったか」と言う私にM記者は少し説明を加えてくれた。県版だけ、しかも「議論を醸しそう」という控えめな記事だったが、この日早朝、読売オンラインがスクープとしてトップ扱いで取り上げた。

 するとこれを読んだ電子版の読者がX(旧ツイッター)に「牛を飼っている人やその子どもはどんな気持ちか」「許せない! 知事がまた暴論」などと次々に投稿。それが拡散されていく中、Xをチェックしていたテレビ各局のスタッフも「あの(川勝)知事の発言だけに、これは大問題に」と東京からもクルーを走らせたという。

 「知事辞任とは思いもしなかったけど、地方版の小さな記事が見事にバトンリレーされていったのです」

 凋落が言われて久しい新聞。とかく問題を指摘されることの多いSNS。いま、まさに大問題を抱えて窮地に立つテレビ。だが、この3者が手を取り合って、傷つく人のために立ち向かうことだってできるのだ。

 聞けばM記者は来月、若手と新入記者にバトンタッチ、東京政治部に異動していくという。3月、4月は別れと出会いの季節。

 ―もうすぐ春ですね

 

(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2025年2月17日(月)掲載/次回は3月3日(月)掲載です)  

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2025年2月 3日 (月)

日本の女性たちだけが理不尽なことを強いられる

-「選択的夫婦別姓」結論どころか…-

 この期に及んで、と言うしかない。国会の施政方針演説で高らかに「楽しい日本」を掲げた石破首相。だが今国会でぜひ結論を、とされていた選択的夫婦別姓について「通称名(旧姓)の使用を拡大することも」と言い出した。ズルズルと後退する施策がこの先、どれほど女性たちを苦しめるか。

 やり切れない思い出がある。東日本大震災から1年ほど。原発事故による避難指示、帰還困難区域への取材は厳しく規制され、私たちも事前に市町村の原子力災害対策課に戸籍上の姓名、住民票上の住所を届け、当日は現地で取材者名簿を提出。照合した上で規制区域に入ることが許される。ところが、テレビクルーが乗った私たちのロケバスは手前で係員に止められた。「役所に届けた方と違う方の名が名簿に載っています」。

 騒然とする車内。すると、みんなが親しみを込めて○ちゃんと呼んでいる30代の女性が「なんでこんなことになるの」と外に出て、係員としばらく話したあと、バスのステップに立った。

 「隠していたわけではないけど半年前に離婚して戸籍は旧姓に戻したんです。でもみんなが親しみを込めて呼んでくれる○ちゃんはそのままにしていました。ごめんなさい」。そう言って下唇をぐっとかんでいた。

 緊急時だけではない。旅券、運転免許証、保険証、保証人、銀行口座…どれも通称名は絶対不可なのに、どこが旧姓使用の拡大なんだ。

 夫婦別姓に反対する人たちは、その理由に家制度の崩壊、バラバラの姓で泣くのは子どもたち―を挙げる。では、その方たちに伺います。国連加盟196カ国のうち夫婦別姓を違法としている国は何カ国あるでしょうか? そう、1カ国、日本だけですね。では残る195カ国ではみーんな家は崩壊してしまって、子どもはみんな泣いているのか。

 石破さん、世界の中で日本の女性たちだけがこんな理不尽なことを強いられていて、それでも…「楽しい日本」なんですか。

 

(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2025年2月3日(月)掲載/次回は2月17日(月)掲載です)

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2025年1月20日 (月)

やっと言えること まだ言えないこと

-阪神淡路大震災から30年 神戸1・17のつどい-

 阪神淡路大震災から30年。神戸・東遊園地の1・17のつどいで最初に出会った方の言葉は「震災の爪痕さえ、残っていないでしょ」。

 会場の一部にはルミナリエの美しい壁。まわりは高層ビルにタワーマンション。だけど人々の心のなかは、少し違っていた。親子4人が連れだった中の息子さんは、震災で母と弟を亡くして、この日、遺族代表の言葉を述べた長谷川元気さんの幼なじみ。「泳ぎやキャンプに行ったこと。元気な保育士だったお母さんも忘れてないよ、と伝えたくて」。

 娘さんと手をつないだ女性は「10歳のとき被災した私とこの子が同じ年になって、これから私の30年をしっかり伝えていこうと、ここに来ました」。階下で寝ていた1歳の娘と母を亡くしたという男性は「2、3年前まで取材は断ってきました。だけど孫に覆いかぶさってアザひとつ作らせずに亡くなった母のことを知ってほしくなって」。そう言って涙をあふれさせた。

 この日出演した東海テレビは地震当日、野戦病院と化した県立淡路病院の生々しい映像を初めて放送した。15分も懸命にCPR(心肺蘇生)をしても回復しない患者に、外科部長の「ストップ。次の人にかかろう」という厳しい声が医師の背中に飛ぶ。究極の命の選択、トリアージの原点ともいわれた救命救急医療の現場だ。

 このほかにも、いくつかの震災特番は兵庫県内の消防本部が生き埋め現場で「もう呼びかけに応答がありません。班は別の要請現場へ」と救急隊員が目を赤くして深々と頭を下げる映像を初めて公開していた。

 これらはいずれもご遺族への配慮から、やっといま公開に踏み切れたに違いない。

 30年たって言えること。それでもなお、心の奥底にしまっておきたいこと。

 この日朝、日経新聞のコラム、「春秋」は神戸の詩人、安水稔和さんのこんな言葉を載せていた。
 
 これはいつかあったこと/これはいつかあること/だからよく記憶すること―。

 

(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2025年1月20日(月)掲載/次回は2月3日(月)掲載です)

 

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2025年1月 6日 (月)

敗戦から80年 戦争は絶対にするな

-「昭和20年に生まれて Born in 1945」-

 新年初のコラム。今年もどうぞよろしく。さて、2025年は戦後80年、昭和100年、阪神・淡路大震災30年…。さまざまに1つの区切りの年である。中でも感慨深いのは、私が生きてきた年月を同じくする、あの敗戦から80年である。

 それに先がけて東京新聞は、昨夏の終戦の日から「同じ歳月を重ねた戦後とどう向き合ってきたかを語ってもらう」という趣旨で「昭和20年に生まれて Born in 1945」を随時連載。第1回は作家の池澤夏樹さん。年内最後は俳優の松島トモ子さん。私も11月に登板させてもらった。

 3人はともに敗戦の1カ月前、昭和20年7月生まれ。当然、戦争の記憶はない。私に至っては、東京大空襲の後、静岡県三島市に疎開。そこで隣接する沼津の大空襲に遭って命からがら東京に逃げ帰った母親の話さえ戦争の苦労話の1つとしか受け止めてこなかった。

 それもあって、連載の記事では〈負の歴史教訓に 権力監視〉〈報道への圧力、忖度に危機感〉の見出しの通り、主に新聞記者時代に関わった「語り継ぐ戦争シリーズ」や、かつて先達が受けた言論弾圧の歴史について語らせてもらった。

 そんな私にくらべて池澤、松島おふたりの話は胸に迫る。トモ子さんを身ごもって8カ月の母を置いて父が旧満州から出征したのは、敗戦の3カ月前。ソ連参戦でシベリアへ。母子が祖国に戻った時、祖母はトモ子さんを見て「干からびたカエルの子」と言ったという。酷寒の地での父の死を知ったのは、その4年後だった。

 池澤さんは「基地を用意するということは裏を返せば挑発」と言って基地建設現場に自らも足を運び、基地反対の人々を「ずるずると戦争に行こうとする国の後ろ足にしがみついている」と高く評価する。

 戦後80年のこの年、私もBorn in 1945の1人として、この国の後ろ足にしがみついてでも書き続けていきたい。

 ―戦争は絶対にするな。

 

(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2025年1月6日(月)掲載/
次回は1月20日(月)掲載です)

 

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2024年12月25日 (水)

戦禍、大災害…「いま私にできることは」

-バイオリニスト天満敦子さんの言葉に思う~脊髄損傷乗り越え「祈り」「望郷」弾く-

 師走の大阪・中之島の中央公会堂。演奏会場につえをついて入って来られた時は一瞬ハッとした。だが、その音色は大胆で、時には繊細でやさしく、とても脊髄損傷という大病を乗り越えてきたとは思えなかった。

  クラシック音楽とは縁遠い私が、バイオリニストの天満敦子さんと知り合って四半世紀になる。天満さんといえば、ルーマニアの天才作曲家、ポルムベスクの「望郷のバラード」と出合って日本に紹介した演奏家としても知られる。ここ数年は、長野県上田市の早世した戦没画学生を慰霊する美術館「無言館」でも定期的に演奏されている。

 コンサートのもう一つの魅力は曲の合間の天満さんの軽妙なトーク。だが、この日は少し違った。闘病の話は笑いをまじえてさらっと流し、話題は何度も足を運んだヨーロッパの国々の戦火に。ルーマニアから隣国、ウクライナへ。キエフと呼んでいたキーウの美しい町並み。素晴らしい音楽家にバレリーナ。そのウクライナが侵攻されて間もなく3年。ルーマニアには、美しい故国を捨ててウクライナの人々が逃れてきているという。そこまで言って天満さんは声を詰まらせた。

 一方でこの日の曲目には、ロシアの作曲家、ヴァヴィロフの「アヴェ・マリア」。ユダヤ人のブロッホ作曲、「祈り」もあった。天満さんは自分に語りかけるように「いま私にできることは、祈って弾き、弾いて祈ることだと思っています」。

 第2部の冒頭に弾いた「望郷のバラード」。29歳で亡くなったポルムベスクは19世紀半ば、ルーマニア独立運動に参加して投獄され、故郷と恋人を思って獄中でこの曲を作ったという。

 この日、天満さんの弦は、あるときは強く叫び、あるときは哀しげにささやくようにも聞こえるのだった。

 戦禍に大災害…。2024年が暮れようとしている。天満さんの言葉をなぞるようだが、私も祈って書き、書いて祈り続けたい。みなさま、どうぞ良いお年を―

 

(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2024年12月23日(月)掲載/次回は2025年1月6日(月)掲載です)

 

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2024年12月11日 (水)

袴田事件に全霊ささげ燃え尽きた

-無罪判決30件以上 元裁判官木谷明さん-

 12月1日、浜松市で開かれた集会。無罪が確定したものの、いまだ現実の世界に戻り切れない袴田巌さん(88)が、この日は「こういう勝利の日が最後に来たというのが喜ばしい。事実がやっと実った」と力強くあいさつ。その後、会場の全員で黙とうをささげた。

 元裁判官の木谷明さんが亡くなった。86歳。木谷さんといえば、在任中に30件以上の無罪判決を出し、そのすべてを覆ることなく、確定させたことで知られる。

 いま思えば、9月26日、無罪判決にこぎつけた袴田事件に全霊をささげ、燃え尽きられたような気がしてならない。その日、私が静岡朝日テレビの特番に出ていると知って局を訪ねてくださって、その場でインタビュー。袴田事件の1審で無罪を主張、傷心の中、裁判所を去った司法修習同期生の故・熊本典道判事の思い出。そしてこの日の判決で明らかになった検察の証拠捏造とそれを指弾できない裁判官たちの勇気のなさ。

 さらに冤罪事件が多発する中、取り返しのつかない死刑制度を廃止すべきとする木谷さんに、国民の8割が死刑存続を支持しているわが国の現状を問うと、「廃止している欧州の国々も当然、反対が多かったの。それをじっくり説いて廃止にもっていく。これこそが、国のリーダーと司法の役割では」と、いつもの静かで柔らかい声が返ってきた。

 20年にもなる取材で、まさかこれが最後のインタビューになるとは…悔しくて、残念でならない。

 最後の著書となった「違法捜査と冤罪〔第2版〕」のあとがきには、証拠を捏造してまで人を死刑に追い込もうとする検察を「自浄作用のない国家機関」と指弾する一方で、この著書が「違法捜査の絶滅。さらには裁判所の優柔不断な態度の絶滅に少しでも役立つことを祈念する」とある。

 あとがきが書かれた日付は死のわずか40日前。いまは遺言となってしまったこの思いを重く、静かに胸に刻み込んでおきたい。

 

(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2024年12月10日(火)掲載/次回は12月23日(月)掲載です)

 

 

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2024年11月27日 (水)

風化に抗い続ける未解決事件被害者家族

-名古屋市西区主婦殺害事件-

 名古屋市西区のマンションの一室。玄関のたたきには、変色しているが、靴底についた血の痕。食卓のコップも、壁のカレンダーも事件の日のままだ。

 1999年11月13日白昼、この部屋で高羽奈美子さん(当時32)が刃物で殺害された事件から25年がたった。

 遺体発見時、食卓の子ども用のイスで泣きもせず、ちょこんと座っていた当時2歳1カ月だった航平さんは、27歳になった。

 事件から15年の節目。2014年に、やはりこの主なき部屋で取材した夫の悟さん(68)は当時、このまま部屋を借り続けるか悩んでいたが、「血の痕をはじめ、手がかかりは少しでも残しておきたい」と結局、そのまま借り続け、払った家賃は25年間で2188万円にのぼるという。

  部屋をそのままにする一方で、高羽さんは航平さんを育てながら前へ前へと歩む年月だった。「この子が大人になっていく中で懸命に犯人捜しをしている父の姿を見せたかった」。そしてもう一つ。「奈美子に限らず、犯罪被害者の死を決して無駄にしてはならないと思い続ける毎日でした」。

 25年で大半が入れ替わった所轄署の警察官を現場に招いて、事件の検証と、これまでの思いを知ってもらう。風化という流れは、自分の事件だけに止まらない。世田谷一家殺害事件の遺族をはじめ、被害者家族で作る「宙(そら)の会」の代表幹事をつとめて15年になる。

 「悲しみと同時に生活もどん底に突き落とされた被害者への国の対応は、余りに冷たい」「きちんと管理できればDNAはもっと捜査に有効に使えるはずだ」

 そうしたことを訴える日々に、うれしい出来事が飛び込んできた。航平さんがこの秋、結婚。お相手は奈美子さんのママ友の娘さん。0歳、1歳児同士で遊んでいた2人が、なんと高校の同じクラスで再会したのだ。

 「奈美子が結んでくれた縁なのに…」。高羽さんの声は未解決事件への重く悔しい思いをにじませていた。

 

(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2024年11月25日(月)掲載/次回は12月10日(火)掲載です)

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