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2024年6月

2024年6月24日 (月)

声がよみがえる―「話になりまへんがな」

-今くるよさん 桂ざこばさんへの思い-

 国際花と緑の博覧会(大阪花博)の開幕が近づいた1990年春、大阪のテレビ番組の花博にちなんだクイズで、なぜか漫才の今くるよさんとコンビを組んだ私は、まぐれもあってあれよあれよという間に優勝。結構な旅行券をいただいた。

 そのくるよさんが亡くなって、あのとき得意の「どやさ」は出たのかな、なんて思い出にひたっていると、追いかけるように桂ざこばさんの訃報が届いた。お二方とも私より若い76歳。寂しさが募る中、スタジオでご一緒することの多かったざこばさんへの思いも尽きない。

 とりわけ2012年大阪でのトーク番組。そのころ関西の人気漫才芸人が高額な年収があるのに母親に生活保護を受けさせていたことが問題となり、この日のゲストはその芸人批判の急先鋒の女性国会議員だった。

 それ以前に芸人が記者会見で「浮き沈みの激しい仕事なので母に生活保護をそのまま受けさせていた」と泣いて謝罪した場面の映像が流れても「制度の悪用は許さない」と息巻く議員に、ざこばさんは一言、「そこまで言うんは(芸人への)みせしめでっか」。その言葉とともに番組はCMに入った。

 すると議員はCMが流れる中、だれに言うともなく、「大阪っておっかしなところよねえ。こういう政治的なことにも芸人が口をはさむのね」とやったから、ざこばさんの怒りの導火線に火がついた。

 「あんたもまた妙なことを言う人でんな」とうなるような声。だけど議員は引っ込まない。「留学していたフランスでもコメディアンは尊敬されてるわ。でも立つ舞台が違うのっ」。

 だが議員は、ざこばさんの「話になりまへんがな」のひと言で完全に浮き上がってしまった。まさに強い者に厳しく、弱い者にはやさしい浪速の笑いの真骨頂。

 だけど、あれから10年余り。時の総理がなんば花月の舞台に初めて立ち、悪評ばかりの万博アンバサダーも浪速の芸人がつとめる。

 話になりまへんがな―あの日のざこばさんの声がよみがえる。

 

(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2024年6月24日掲載/次回は7月8日(月)掲載です)

 

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2024年6月11日 (火)

思い出す門田博光選手の言葉

-Eテレ特集「ある野球人の死―」-

 何で今ごろ? 何で私に? 一瞬、そう思った取材依頼がNHKからあった。

 〈プロ野球南海ホークスなどで活躍され、本塁打にこだわって、王選手、野村選手に次ぐ歴代3位のホームランバッター。昨年亡くなられた門田博光さんの特集をただいまEテレで進めております〉

 メールには1988年に私が月刊誌、「中央公論」に書いた〈門田博光 おじさんの出番〉が貼付されていた。

 瞬く間に私は36年前にタイムスリップした。

 浪速っ子にこよなく愛された南海球団の本拠地、大阪球場は新聞記者時代の私の持ち場。難波のど真ん中にあって、その時すでに築38年。振り返れば、1988年は昭和最後の年の前年。40歳の門田選手はこの年、ホームラン44本で本塁打王に輝き、MVPも獲得した。

 私は何試合も足を運んでスタンドから門田選手の姿を追った。この4番DHは、どの試合でも自分の打席の2人も前からベンチを出て、思い切りバットを振り回す。

 試合が終わって汗びっしょりのユニホーム姿で、気さくに取材に応じてくれる。

 「うん、DHいうんは試合の流れをつかみにくいんや。そやから少しでも早く出て行って試合の流れに体を合わせなならんのや」

 その門田選手のこだわりは、希代ののアーチストとまで呼ばれたホームラン。ヒットには当たり損ないもボテボテもある。だけど本塁打は「バットの芯でとらえて、そのあとのフォロースイングも完璧でないとホームランにはならんのですわ」。

 ベンチ横、ひびの入った壁に南海沿線の水間観音のお札が貼られた控室。時は流れ、昨年、門田選手がひっそりと旅立った一方で、大リーグでは10人以上の日本人選手が活躍している。

 Eテレの取材では、その南海ホークスを描いた水島新司さんの漫画の主人公、あぶさんがこよなく愛した通天閣界隈にも足を延ばした。

 NHKETV特集「ある野球人の死 門田博光とその時代」は、15日(土)深夜11時から。

 

(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2024年6月11日掲載/次回は6月24日(月)掲載です)

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