阪神から東日本。そして能登へ
-久しぶりに女川へー
きょう3月11日は東日本大震災から13年。東海テレビの取材で久しぶりに訪ねた宮城県女川町は、元気を取り戻しつつあった。
人口の1割近く、827人が犠牲となった町の中心部はJRの駅からズドンと海に続くレンガ道の両側にカフェや楽器店が固まって並び、週末は人波が絶えない。
震災後の町の復興連絡会。当時の商工会の会長から「還暦過ぎた者は一切口を出さない。次世代の町づくりは君たちで」といわれた当時40代の阿部喜英さんらは戸惑うことばかりだった。
そんなとき、声をかけてくれたのが神戸の大正筋商店街の人たちだった。阪神・淡路大震災のあと、下町に巨大な駅ビルを建てて大失敗した神戸・新長田の再開発を近くで目の当たりにしてきた。
「具材もないのに大鍋用意してもアカン。やる気のある人を集めてから町づくりや」。それがいまのコンパクトシティー構想となった。
町で唯一のスーパー、「おんまえや」の6代目社長、佐藤広樹さんは祖父母、母、姉、従業員5人と店を津波で失った。当時29歳。復興連絡会の会員というより、先輩に肩を抱かれて励まされることが多かった日々。震災からじつに9年、4年前の3月、店を新装オープンさせた日、佐藤さんのあいさつは海風ではなく、涙で何度も途切れた。
そして今年1月3日。佐藤さんは元日、地震に見舞われた能登に向けて徹夜で物資を積んだワゴン車を走らせていた「物を届けるのと同時に、今度はぼくがまた一から始めたいという人の力になってあげたい」。
災害は、あってはならないが、災害への思いは阪神から東日本へ。そして能登へと引き継がれていく。
(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2024年3月11日掲載)
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