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2024年3月

2024年3月25日 (月)

発生40年…グリコ森永事件が問いかけること

-似顔絵 広域捜査 劇場型犯罪-

 3月18日は、グリコ森永事件、私が社会部記者として最後の非常招集を受けた事件の発生から40年だった。全国紙では産経1紙が大きく検証記事を掲載していた。

 〔キツネ目の男 消えぬ残像〕
 似顔絵は確かに有力な手がかりだ。だが、公開と同時にそれに関する情報しか集まらなくなるというリスクもあって、この事件でも〝キツネ目の男〟の公開には議論が分かれた。今なら、より鮮明な防犯カメラ映像となるはずだが、公開の功罪は論じられているのか。

 〔広域捜査徹底できず「警察の敗北」〕
 府県警間の連絡のまずさから不審車両を取り逃がした滋賀県警の本部長が焼身自殺するという痛恨の事態を招いた。だが、いまも海外に指示役を置く連続凶悪強盗事件を東京、千葉、広島で起こさせてしまった。

 広域捜査を阻む壁はまだ取り除かれていない。

 〔一網打尽優先 不審者職質せず〕
 この事件で電車内から〝キツネ目の男〟を追尾した刑事に出した幹部の指示は「接触せずに仲間と合流させて全員逮捕せよ」。結果、男は雑踏に紛れてしまった。特殊詐欺の受け子を逮捕して指示役を自供させるのか、泳がせてグループを割るのか。いまも議論が分かれる。

 〔警察組織のメンツ〕〔劇場型の教訓〕
 「かい人21面相」の名前で、捜査幹部をからかった脅迫文を送りつけてくる劇場型犯罪。日増しに過熱する報道にいら立った警察組織とメディアの間には、かつてないほどの亀裂が走ってしまった。果たしてそれは修復されたのか―。

 さまざまなことを問いかける、あれから40年である。

 

(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2024年3月25日掲載)

 

★4月からは分量をボリュームアップし、隔週月曜日の掲載となります。初回は4月1日です。今後ともよろしくご愛読下さい)

 

 

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2024年3月18日 (月)

女性記者達の「格闘」と「確執」の歴史

-ドラマ「テレビ報道記者」-

 これは「奮闘」というより、「格闘」であり、「確執」の歴史なのだ。そんなことを考えていたら、2時間54分はあっという間だった。
 日本テレビ5日放送の番組を、少し長くなるが新聞のテレビ欄のまま紹介する。

 「開局70年スペシャルドラマ〝テレビ報道記者〟~ニュースをつないだ女たち…ニュースの裏側で奮闘し映像と言葉で伝えた女性記者たち…記者ら80人を取材し描くヒューマンドラマ」

 オウム事件からコロナ禍まで。4世代にわたる女性記者たちには、女性初の事件記者、女性初の警視庁キャップ、女性初の社会部長…。全部に「初」と「女性だけど」「女性なのに」がついてまわる。

 若い世代はコロナによる保育園の突然の休園にうろたえ、上の世代は親の介護に頭を抱える。

 ライバル局だったが、長年テレビの夕方ニュースに関わってきた私は、番組が終わるなり、保育園のお迎えに駆け出す女性記者を毎日のように見てきた。そのころ男性デスクが言った「彼女たちは、後に続く女性記者のためにも短い時間に人の倍は働いて帰りますよ」という言葉がいまも耳に残っている。

 局の情報番組をめぐる取材先とのトラブル。局内部署間の確執、軋轢。事件の関係者から浴びせられる「人の不幸で飯を食ってるのか」という罵声。「なんのために、誰のために、なんでこうまでして…」。

 だが、女性のデスクが若い女性記者に静かに語りかける。

 「テレビを頼りに思ってくれている人にまで必要な情報を届けなかったら、本当に終わっちゃうよ」

 テレビに限らず、全てのメディアに向けられた言葉と受け止めた。

 

(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2024年3月18日掲載)

 

★4月からは分量をボリュームアップし、隔週月曜日の掲載となります。初回は4月1日です。今後ともよろしくご愛読下さい)

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2024年3月11日 (月)

阪神から東日本。そして能登へ

-久しぶりに女川へー 

 きょう3月11日は東日本大震災から13年。東海テレビの取材で久しぶりに訪ねた宮城県女川町は、元気を取り戻しつつあった。

 人口の1割近く、827人が犠牲となった町の中心部はJRの駅からズドンと海に続くレンガ道の両側にカフェや楽器店が固まって並び、週末は人波が絶えない。

 震災後の町の復興連絡会。当時の商工会の会長から「還暦過ぎた者は一切口を出さない。次世代の町づくりは君たちで」といわれた当時40代の阿部喜英さんらは戸惑うことばかりだった。

 そんなとき、声をかけてくれたのが神戸の大正筋商店街の人たちだった。阪神・淡路大震災のあと、下町に巨大な駅ビルを建てて大失敗した神戸・新長田の再開発を近くで目の当たりにしてきた。

 「具材もないのに大鍋用意してもアカン。やる気のある人を集めてから町づくりや」。それがいまのコンパクトシティー構想となった。

 町で唯一のスーパー、「おんまえや」の6代目社長、佐藤広樹さんは祖父母、母、姉、従業員5人と店を津波で失った。当時29歳。復興連絡会の会員というより、先輩に肩を抱かれて励まされることが多かった日々。震災からじつに9年、4年前の3月、店を新装オープンさせた日、佐藤さんのあいさつは海風ではなく、涙で何度も途切れた。

 そして今年1月3日。佐藤さんは元日、地震に見舞われた能登に向けて徹夜で物資を積んだワゴン車を走らせていた「物を届けるのと同時に、今度はぼくがまた一から始めたいという人の力になってあげたい」。

 災害は、あってはならないが、災害への思いは阪神から東日本へ。そして能登へと引き継がれていく。

 

(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2024年3月11日掲載)

 

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2024年3月 6日 (水)

お詫び

先週末より、サーバーの都合でアクセスできない状態となっておりました。
ご迷惑をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます。

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2024年3月 4日 (月)

ウクライナ避難家族に「安心」を

-日本から停戦の叫び-

 「好き嫌いはないみたいね」「先生もご飯好きでしょ」。ミアちゃん(4歳)は、母のマリッチ・ナタリアさん(34)と姉の3人でウクライナから岐阜県に避難してきた。おととしの春、幼稚園入園のとき、東海テレビのカメラの前で大泣きしていたミアちゃんは、いまではお母さんより日本語が上手だ。

 ロシアのウクライナ侵攻から2月24日で2年。ナタリアさんのようにウクライナから日本に避難している人は、いま2099人。全世界の807万人に比べたら微々たる数だが、ここ1年で大きく変わったことがある。このまま日本にいたいという永住希望者が約4割と大幅に増えているのだ。

 ナタリアさん家族も同様だが、悩みは深い。ウクライナ政府はロシアの侵攻後、18歳から60歳までのすべての男性の出国を禁止した。そうなると、「ロシアは侵攻をやめて。1日も早い停戦を」と願っている女性や子どもは国外に避難。昨年からのイスラエルのガザへの残虐行為も相まって、ナタリアさんたちの声がかき消されてしまうのでないかという。

 だが、それは違う。こんなときこそ、「安心して日本にいてください。1日も早い停戦を、と私たちが世界に訴えますから」と約束することが平和国家、日本の役割ではないのか。

 警察官をしているナタリアさんの夫は電話をしてくるたびに「これが最後かも」とつけ加えるという。侵攻から2年の日、朝日新聞の「天声人語」は、ウクライナの国民的作家の言葉、〈自分たちの一生は「戦前」と「戦中」の二つに分けられる〉を紹介していた。

 「戦後」がなくて、いいはずがない。

 

(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2024年3月4日掲載)

 

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