新聞でテレビで報道のあり方問い続けた内田さん
-東海テレビ会長の死…残念-
惜別の一輪の花を手向けることもままならないようだ。昨年12月20日、亡くなられ、先週末予定されていた内田優東海テレビ会長のおわかれ会が、コロナ禍のため延期になった。
もう25年も前、中日新聞から東海テレビに転じてこられた内田さんが、やはり新聞からテレビに軸足を移した私に、最初に企画された報道番組「報道原人」のキャスターとして声をかけてくださった。以来、折に触れてグラスを合わせてきた。
互いに事件記者出身ながら、内田さんは熱烈な野球愛、中日愛。スポーツ記者当時の試合評「球心」は、厳しいなかにも温かさにあふれていたと聞いた。
その一方で戦争と平和には1本筋を通していた。中日の沖縄キャンプ。元県知事の大田昌秀さん(故人)の取材で「沖縄を米軍基地のベースからベースボールの沖縄へ」と意気投合されていた姿が目に浮かぶ。
飲めば、話題は新聞を含めて報道のあり方、伝え方。そうした中で「ドキュメンタリーの東海テレビ」の名を揺るぎないものにしていった。「死刑弁護人」「ヤクザと憲法」、そしてテレビ局の負の部分もさらけ出して波紋を広げながらも、メディア評論家に「弱さを見せる強さ」とまで言わしめた「さよならテレビ」。
内田さんは「何かあったら私に、と言っているだけですよ」と多くを語ることはなかったが、この人の存在なしに作品が表に出ることはなかったはずだ。
これほどテレビを愛した新聞人はいない。これほど新聞を愛したテレビマンもいない。71歳。がんと懸命に闘っているなかでの突然の死。悔しくて、残念で…いまだあきらめがつかない。
(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2022年1月31日掲載)
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