日刊スポーツ「フラッシュアップ」 大谷昭宏
心にぽっかり穴 「戦後初」1番バッターの死
-黒田脩さん8月31日逝去-
黒田脩さんが8月31日、亡くなった。91歳だった。1週間がたつが、心にぽっかり穴があいたままだ。私の新聞記者時代の恩師、黒田清さんの実の兄。新聞社を退社後、一緒に仕事をしていた清さんが20年前に69歳で亡くなり、呆然としていた私の背中を押し、励まし、支え続けてくれた。
その黒田脩さんは朝日新聞の訃報記事が書くように〈「戦後初」の1番打者〉だった。終戦の翌年、1946年(昭21)に復活、米軍に接収されていた甲子園に代わって西宮球場で開かれた全国中等学校優勝野球大会、いまの夏の甲子園大会の開幕試合。黒田さんは京都二中の1番バッターで打席に立った。
「1番はその日の朝、監督に言われてな。四球で塁に出たんやけど緊張してバットを振ったかどうかも、覚えてへんのや」。夏の大会100年、第100回。節目ごとに、もう何十回、いや何百回と聞かれたことを、きのうのことのように楽しく話してくれるのだった。
真夏の太陽の下、白いシャツで埋まった満員のスタンド。それは野球ができる国、平和が訪れた日本の初打席だったかもしれない。
黒田さんはその後、大阪食糧卸株式会社の社長として事業を発展させる一方で、生涯、高校大学野球を愛し、母校の同志社大学野球部OB会会長や関西六大学野球連盟(現・学生野球連盟)の理事長を務められた。
3年前、秋風が頬にやさしい神宮球場で一緒に東京6大学戦を観戦する機会があった。関西学生と東京6大学、リーグは違ったが、連盟の理事やOBが次々に駆け寄ってこられ、その人脈の広さに驚かされた。
長年、親交があった朝日新聞の安藤嘉浩編集委員は追悼記事で〈「何か起きれば、また高校野球ができなくなる。平和を守らんといけません」と願っていた〉と書き、コロナ禍で今年の夏の大会の中止が決まった5月、電話口で「寂しいね。野球ができることが夢だった私たちと同じ気持ちでしょう」と今の球児を気遣っていた、と書かれていた。
西宮市のお寺で営まれた家族葬。私はこんなお悔やみの言葉を送らせもらった。
―戦後初の大会の1番バッターは、いま三塁ベースを蹴って、果敢にホームイン。両手を広げて待っていた清さんと、しっかり抱き合っていることでしょう―
(2020年9月8日掲載)
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