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2019年5月

2019年5月30日 (木)

日刊スポーツ「フラッシュアップ」大谷昭宏

壁に突き当たった裁判員制度

 先週は新聞、テレビを裁判員制度のニュースが飾った。2009年に制度が始まってこの5月21日で10年を迎え、私も都内で開かれたシンポジウムを取材。痴漢冤罪事件を描いた映画「それでもボクはやってない」の周防正行監督にもインタビューさせてもらった。

 「裁判員裁判のおかげで他の事件の録画録音可視化が進むなど波及効果もあった」と周防さんが言う通り、10歳になったこの制度、すくすくと育っているように見える。ただ、ここにきて1つの壁に突き当たっていることも事実だ。

 裁判員候補になったあと、実際の裁判を辞退した人は発足当時の53%から68%、じつに7割近くになってしまっているのだ。その原因のひとつが長期化する審理。当初平均3・7日だったものが昨年は10・8日。ついに100日を超える裁判も出てきてしまった。そうなると一般の市民はなかなか引き受けられない。参加できるのはリタイアした人や、よほど裁判に興味を持っている人。「広く市民の声を裁判に」という当初の理念は、どこかに行ってしまう。

 その一方で「ホォ、そうなんだ」と感じるデータもある。裁判員経験者のアンケートで、全員に近い97%の人が「よい経験と感じた」と答えているのだ。実際シンポジウムに参加した裁判員経験者からも「見ず知らずの人と熱い議論を交わせた」「人生が深まった気がする」「生涯の宝物」といった声が寄せられていた。

 なのに、なぜ7割の人が辞退するのか。裁判員経験者は口々に「貴重な経験を多く人に伝えたくても、私たちに課せられた守秘義務が重くのしかかっているんです」と訴える。

 たしかに法律では、裁判員の候補になった時点から生涯にわたって守秘義務が課せられ、違反すると懲役刑まである。これでは最高裁がいくら「裁判員になって感じたこと、心に残ったことを口にするのは自由」と言っても、一般市民の裁判員は怖くて裁判のことを話せないのではないか。

 ここは裁判所も発想を180度転換して、評議内容を漏らした時に限って処罰の対象とできないものか。 裁判員裁判10年のキャッチコピーの1つ、「私も出来た あなたも出来る 裁判員」。広めるのは裁判所の大きな役割だと思うのだ。

(2016年5月28日掲載)

 

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2019年5月23日 (木)

日刊スポーツ「フラッシュアップ」大谷昭宏

悲しみが先にきた「戦争」発言…
-丸山議員の北方領土ビザなし渡航-

 最初に湧いてきた思いは、胸ぐらつかんで引きずりまわしてやりたいというよりも、悲しみだった。日本維新の会を除名になった丸山穂高衆院議員(35)が北方領土のビザなし渡航で、元国後島民の大塚小彌太団長(89)に「戦争でこの島を取り返すことに賛成ですか、反対ですか」「戦争しないと、どうしようもなくはないですか」などと発言した。

 なぜ、悲しみが先にきたのか。昨年12月、いまは上皇となられた天皇が最後に臨まれた誕生日記者会見。陛下は時折、声を詰まらせながら、「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と述べられたのだ。

 その平成が令和になって10日ほど、平成元年には5歳にもなっていなかった男がなぜか、国権の最高機関に紛れ込んで「戦争しないと、どうしようもなくはないか」と言い放ったのだ。

 もう1点、2012年(平24)私は札幌で開かれた厚労省主催の「中国・樺太残留邦人への理解を深めるシンポジウム」のコーディネーターをさせてもらった。

 終戦直前、ソ連軍は日本統治下の南樺太(現・ロシアサハリン州)や千島列島に侵攻、行き場を失った日本人、とりわけ多くの女性が現地に取り残された。

 その後3年にわたって引き揚げ事業が行われたのだが、かなりの女性が生活のため現地の韓国人労働者と結婚。さらにその後、帰還しやすい国籍という根拠のないうわさを信じて北朝鮮やロシア国籍にした女性もいた。だが、引き揚げ事業はあくまで日本人が対象。無情にも岸壁を離れていく船を、涙で見送った残留邦人も少なくなかったという。

 2012年の札幌でのシンポジウムには2年前、89歳でやっと永住帰国を果たした女性もおられた。白髪の下の額に深く刻まれたシワ。その方たちの口を突いて出るのは、「戦争は嫌、戦争は絶対ダメ」だった。ビザなし渡航の大塚団長も当時少年だったとはいえ、そんな日本人の姿を目に焼き付けたはずだ。その人たちに、国会議員が「戦争、戦争」と言い放ったのだ。

 こんな男は放っておけとまでは言わない。だが、いま大事なことは、この議員に与党をはじめ各党が、各議員が、どう対応するのか、しっかりと目に焼き付けておくことではないだろうか。

(2019年5月21日掲載)
 
    

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2019年5月16日 (木)

日刊スポーツ「フラッシュアップ」大谷昭宏

平成の黒い疑惑 幕引きさせてなるものか
-広島中央署の8572万円盗難事件-
県警VS.記者

きょう5月14日は昨年、新潟市西区で小学2年の女児が殺害されたうえ、線路に遺体を遺棄された事件で、犯人の男(24)が逮捕されて1年になる。世間を震え上がらせ、私たちも連日、報道したが、1年たって初公判さえ開かれていないことを知っている人は少ないのではないか。同時に、ニュースを送る側の関心の移ろいの速さにも驚かされる。

 そんななか事件発生からまる2年の、この5月はさすがにないと思っていたら、「やっぱり県警の対応についてコメントを」と言ってきた局がある。日本テレビ系列の広島テレビが、それ。

 2017年(平29)大型連休明けの5月8日、広島中央署会計課の金庫から現金8572万円が盗まれていることに課員が気づいた。大金が警察署から盗み出され、しかも身内の犯行とみて間違いない、日本の警察史上に残る大汚点。
 この事態に署や県警の幹部がうろたえるのは、わからなくはない。だが県警は事件についての広報や県民への説明、謝罪は一切なし。翌年、本部長が転任するあいさつの一部で事件にふれただけだった。
 この対応が広島テレビの事件記者に火をつけた。電話取材だけではあきたらないと、ときには記者が新幹線で大阪の私の事務所までやってきた。

 だけどこうした報道も県警にとってはカエルの面になんとか。事件後に着任した本部長の下、幕引きに向けて次々と手を打ってくる。まず今年2月、県民に迷惑はかけないとして被害金は県警幹部とOBで全額弁済すると公表。そのうえで4月、元県警警部補が犯人とした一部報道を「関知しない」としたまま、中央署長ら7人の処分を発表した。

 そもそも事件が解決していないのに、どうやって関係者を特定して処分できるのか。このときも広島テレビで怒りに燃えるコメントをさせてもらった。一刻も早くみっともない事件を忘れさせようと幕引きを図る県警側と、そうはさせじと幕にしがみつくテレビ記者。

 だけど広島だけではない。国に目を移してみれば、森友・加計問題に、あちこちで噴出した統計不正。令和の新時代に押し寄せたお祝いの波も、いま静かに引きつつある。そこに再び、くっきりと姿を見せた平成の黒い疑惑。慶事に紛れて幕引きさせてなるものか。メディアの真価が問われている。

(2019年5月14日掲載)

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2019年5月 9日 (木)

日刊スポーツ「フラッシュアップ」大谷昭宏

令和の坂道どうあるいていくか
‐新時代 心に残った新聞報道‐ 

 平成最後の4月30日は、岐阜県関市平成(へなり)地区の「道の駅平成」から雨模様のなかの生中継。明けて令和となった5月1日は、定番のこの日式を挙げたカップルに、これも定番、日付が変わると同時に産声をあげた赤ちゃんの紹介。テレビでこんな放送をしておいて「過剰お祝い 議論遠く」(2日付毎日新聞)の指摘に耳を傾けよう、なんて言うのもおこがましい。それを承知でこの間、心に残った新聞論調をいくつか。

 平成最後の日を目前に毎日新聞の「余録」は、まず江戸時代の終わりから伸び続けてきた人口が平成20年(2008年)、1億2808万人をピークに下り坂に入ったことを指摘。平成12年(2000年)、世界で2番目だった国民1人当たりのGDPは、いま世界で26番目にまで落ち、「知らず知らずのうちに私たちは文明の峠を越えたようである」として、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」のあとがきの一文にふれる。

 〈楽天家たちは…前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみを見つめて坂をのぼっていくであろう〉

 このあとがきに続けて、余録は「今、峠の坂道を越えて先行きに戸惑う私たちだ」として「誰もが文明の引き潮におののいた平成だった」と記すのだった。

 もう1点。元号が変わり、新天皇が即位された日の朝日新聞朝刊。原武史放送大学教授は〈社会は「奉祝」一色になっている。天皇が戦争責任を清算せずに死去したことなど、批判的な意見がテレビでも平然と放送されていた昭和の終わりに比べると、日本人の皇室感は大きく変わった〉としてこう続ける。 

 〈(いまは上皇、上皇后となられたおふたりは)おおむね称賛をもって迎えられた。ますます分断する社会を統合しようとしてきた感さえある〉としながらも、極めて厳しい指摘をする。

 〈だが一方で、本来政治が果たすべきその役割が、もはや天皇と皇后にしか期待できなくなっているようにも見える。そうであれば、ある意味では、民主主義にとっては極めて危うい状況なのではないか―〉

 連休も終わって、きょうからの日常。かがやく雲のみを見つめてきた私たちは、令和の坂道を、どうあるいていこうとしているのだろうか。

(2019年5月7日掲載)

 

 

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2019年5月 2日 (木)

日刊スポーツ「フラッシュアップ」大谷昭宏

平和は「沖縄基地お守り」の御利益なのか
‐戦争のない時代 平成‐

 平成の元号のもとで書く最後のコラムである。きょう退位される天皇陛下。直近で深く心に残ったことといえば、やはり昨年85歳のお誕生日を前に、天皇として最後となる記者会見で語られたお言葉だった。

 あらためて記事を読み返してみると、陛下は何度か声を詰まらせ、涙声に聞こえることもあったとある。

 ひとつは戦争と戦後の日本にふれながら、「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵(あんど)しています」と、ご自身の平和を希求するお気持ちを率直に述べられたときだった。

 さらに陛下は皇太子時代を含め、皇后とともに11回も訪問された沖縄にふれ、「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と、何度か声を詰まらせた。

 その沖縄、私事になるが、4月中旬、数十回目となる取材で、このたびは地元の沖縄タイムス、琉球新報2紙の記者を訪ねた。肌で感じたことは、国際通りのみやげ物店に早々と「令和」のTシャツが並んだ以外、平成から令和へ、本土の、どこか浮足立ったにぎやかさはメディアを含めて沖縄にはないように見えた。

 インタビューさせてもらったのは、沖縄2紙のデスククラスの中堅記者と入社3年目の若手。陛下が沖縄に何度も足を運んでくださったことに心底感謝しつつ、ともに口にしたのは、沖縄の思いに耳を傾けようとしない本土へのもどかしさだ。

 辺野古新基地反対の衆院補選候補が当選する前だったが、県民投票で圧倒的多数でノーの結論が出たのに、直後から急ピッチで進むサンゴ礁の海の埋め立て。沖縄の「平和」と「犠牲」。中堅、若手の記者からともに口を突いて出たのはくしくも「基地お守り論」だった。

 北朝鮮の核ミサイル、中国の海洋進出。沖縄の米軍が、そして基地が、抑止になっている、それがあるからこそ、平和が維持されている─。だけどそれは本当に、このお守りの御利益なのか。後生大事にしているお守りの中身を、だれか1人でも見たことがあるのか。

 陛下が安堵された戦争がなかった平成の時代と、沖縄の人々が耐え続けた犠牲。大事にすること、向き合わなければならないこと、重い命題を胸に、あと数時間で令和の時代がやってくる。

(2019年4月30日掲載)

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